なぜ神は人類を創造したのか(1/4):神への崇拝
人間的な観点による「なぜ神は人類を創造したの か」という質問は、「人が創造された目的は何なのか」に置き換えることが出来ます。最終啓示(クルアーン)において、この質問は至極明白に答えられていま す。人間は神によって、あらゆる人間は生まれながらにして神への意識を備えられていると知らされています。クルアーンにおいて神はこう述べます。
“あ なたがたの主が、アーダムの子孫の腰からかれらの子孫を取り出され、かれらを自らの証人となされた時を思え。(その時かれは仰せられた。)「われは、あな たがたの主ではないか。」かれらは申し上げた。「はい、わたしたちは証言いたします。」これは復活の日にあなたがたに、「わたしたちは、このことを本当に 注意しませんでした。」と言わせないためである。「また、先に神々を崇拝したのはわたしたちの祖先で、わたしたちはその後の子孫です。あなたは、虚偽に従 う者が行ったことのためにわたしたちを滅ぼされますか。」と言わせないためである。”(クルアーン7:172−173)
預言者(神の慈悲と祝福あれ)によると、神はアダムを創造したとき、第12 月の9日にナアマーンという地で彼に誓約をさせました。それから神は、将来生まれてくるアダムの子孫のあらゆる世代を彼の前に一同に集わせ、彼ら全員から も誓約をさせました。神は彼ら一人一人に面と向かって語りかけ、かれが彼らの主であることを証言させました。その結果、人類一人一人の魂には神への信仰が 刻み込まれており、それに対しての責任を有しているのです。この生来の信仰から、神はクルアーンにおいて人類の創造の目的について定義しているのです。
“ジンと人間を創ったのはわれに仕えさせるため。”(クルアーン51:56)
このように、人類が創造された根本的な目的とは、神を崇拝することなのです。し かしながら、全能者である神は人間による崇拝を必要としている訳ではありません。かれが人類を創造したのは、かれがそれを必要としているからではないので す。たとえ人間が誰一人としてかれを崇拝しなかったとしても、かれの栄光を落とすことは全くなく、また全人類が皆かれを崇拝したとしても、かれの栄光を高 めるということは少しもないのです。神は完全なのであり、かれは何一つの必要性もなく自存しています。しかしあらゆる被造物は何らかの必要性を持っていま す。それゆえ、人類は神を崇拝する必要があるのです。
崇拝の意味
人間が神への崇拝を必要としている理由を理解するには、まず「崇拝」という言葉が何を意味しているのが理解されなければなりません。英語の場合、崇拝(worship)は、「栄誉」を意味する古英語の(weorthscipe)から来ています。また、崇拝は英語で「神に対しての栄誉を示す献身的行い」と定義されています。この定義によると、人間は神への感謝と栄誉を示すことが求められます。クルアーンにおいて、神はこう述べます。
“あなたの主を讃えて唱念せよ・・・”(クルアーン15:98)
神への讃美において、人は他の被造物同様、創造主を自然に讃える方法を用います。神はこの現象をクルアーンの多くの章句において言及しています。たとえば、神はクルアーンにおいてこう述べます。
“7つの天と大地、またその間にある凡てのものは、かれを讃える。何ものも、かれを讃えて唱念しないものはない。だがあなたがたは、それらが如何に唱念しているかを理解しない。”(クルアーン17:44)
最 終啓示の言語であるアラビア語において、崇拝は「イバーダ」といい、それは「奴隷」を意味する名詞の「アブド」と密接な関係を持ちます。奴隷とは、主人が 望むことを何でも行うことが求められます。そして最終啓示によれば、崇拝とは「神の御意への忠実な服従」という意味であるとされています。これが、神に よって人類に遣わされたすべての使徒たちによる教えの核心なのです。たとえば、崇拝についてのこうした理解は、預言者イエス(メシア、またはイエス・キリ スト)によって次のように強調されています。
“わたしに向かって「主よ」と言う者が皆、神の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。”
こ の引用の中の「御意」とは、「神が人間に望んでいること」であり、「神が人間に許していること」ではないということが言及されるべきでしょう。なぜなら、 神の御意(許し)なしには被造物において何も起きることはないからです。「神の御意」とは、預言者たちがその追従者に教えた天啓法のなかに含まれていま す。したがって、天啓法への従順は崇拝の基礎なのです。こうした意味から、人が讃美についての神の指示に従うのであれば、讃美は崇拝となるのです。
崇拝の必要性
な ぜ人間は天啓法に従いつつ神を崇拝し、讃美しなければならないのでしょうか? なぜなら、神の法への従順さは現世と来世での成功の鍵だからです。最初の人 間だったアダムとイヴは天国で創造され、神の法に背いたことからその後天国を追放されました。人間が天国へと戻る唯一の方法とは、神の法に従うことです。 マタイによる福音書によると、預言者イエスは天国へ行く鍵とは神の法に従うことであると述べたと報告されています。ある人物が彼を訪れてこう言っていま す。
“「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方は神おひとりである。もし命を得たいのなら、戒律を守りなさい。」”
また次のように、預言者イエスは戒律を厳守するよう求めたと報告されています。
“だから、これらの最も小さな戒律を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の王国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の王国で大いなる者と呼ばれる。”
神 の法は、人類のあらゆる局面における導きを示します。それらは善悪を定義し、すべての諸事を規定する完全なるシステムを提供します。創造主のみこそが、そ の被造物にとって何が有益であり、そうでないかを熟知します。神の法は人間の精神・身体・社会を害悪から保護するために、様々な行為や物質を禁じます。人 が健全な人生を全うするためには、神の戒律に従いつつ神を崇拝する必要があるのです。